命理学的にいうと、寅年の卯月で木旺の真っ最中と言えども、天干地支が重なる日は、その象意は強く出るもの。庚寅年の庚辰月が目前に迫っているのだし、そういう日に兆しが出てもおかしくないはず。
伊勢神宮は日本の神社の大元締め、そして天照大神様がいらっしゃるのだから、その日に伊勢神宮に参拝するのは、すでに「官殺」の象意がそのまま出ていたわけです。
一番大きな変化だったのは、世界平和、民の幸福という視点を持つことができたこと。
これまで、世界の平和、世界の幸福を、心から思い祈願したことなんてあったのだろうか?
「外宮では、自分の願いをお祈りしてもよくて、内宮では世界平和とかを祈るのです」と教えていただいて、初めて「そうなんだ!」と気がついたわけです。なので外宮では、家族の健康と発展を祈りました。内宮では、世界平和と世界中の人々の幸福を祈りました。
そういう祈
りを持つと、すべてが小さく感じられてしまいました。
とかく、人は自分の縄張りをきずこうとしたり、いろいろな差異で分かれてみたり、競い合ったりするものですが、それらはすべて小さな世界に生きるがゆえの確執に思えました。
超能力、己だけの覚りの世界、運命学と宿命論、予兆、精神世界的思想、先祖供養、読経、祝詞、御浄化、御神事、陰徳論、風水、術・祈祷の世界、神懸かり、過去世体験、ハイアーセルフ、インナーチャイルド、未来体験・・・さまざまな体験を通じて、見えない世界を通り抜けてきたわけだけれども、どうしても腑に落ちないものがあり、どこに意識を置いてよいのかわからない。
カルマというものを知れば知るほど人のカルマには首を突っ込みたくはないし、術は使えても人の欲望に加担するためにあまり使いたくない、徳を積み人を助けるという生き方が福分を増していくことが分かりできるだけやってはいるが、これでよいのか?そうやって凶を回避し、徳を積んで吉へ向かうことだけが人生なのか?もっと、人のカルマの中に飛び込んでいって助けるべきじゃないのか?いろいろな想いが私を揺さぶりました。
修行が大切という人もいます。修行は何のためにするのか?カルマに規定された人生の苦しい時期を、行いを修めることで回避することができるのは確かなことです。現実の生活から離れること。暴力的な運命の力の中で、息継ぎをするように精神世界に癒しの場を求めることも有効なことです。私もそういう時期がありました。
では、良きカルマの時期は何をすればよいのでしょうか?
祈りがかなう時期なのであれば、世界の平和、世界の民の幸福をお祈りすることが一番、だと想うようになりました。そうすれば、取りあえず地球上の人全員が幸せになるからです。忘れていましたが、人だけでなく、生きていくのは辛いことなのだから、地球上の動物や植物達の幸せへの祈りもいれなければなりませんね。(^-^)
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