「巒頭と理気」について
風水を実際に見る場合,大きく分けて二つの観点から判断します。
一つは有形なものから見る方法。もう一つは無形なものから見る方法です。
前者を「
- 「巒頭」とは、山や丘陵や河などの形勢から気(エネルギー)の状態を見極めて吉凶を判断する方法のこと。
- 「理気」とは、住居や墓の向きや方位などから気の状態や吉凶を判断する方法のこと。
最近、日本で多く出版されている風水の評論書では、巒頭中心に語られているものが多く、また、実用書では理気のみを扱ったものが氾濫している傾向にありますが、実際の鑑定においては両方を併せて見ることでより正確に吉凶を判断していきます。
今回は巒頭(外形から風水を診断)についてお話します。
「龍・穴・砂・水」で形勢の善し悪しを知る
中国の伝統的風水学“風水の四大原則”「龍・穴・砂・水」に照らして吉地を探し当てます。実地見聞してこれを判断できるようになるには最低でも3~5年はかかります。
「龍」
風水学では、山脈のことを龍脈と言う。山脈がエネルギーに満ちて起伏に満ちてうねりを見せている姿が龍を想像させるのだろう。龍にも、長い(幹龍)・短い(枝龍)、大・小、真龍・仮龍などがある。真龍は紆余曲折して、また起伏があり、守護するものを伴なう。
「穴」
龍穴のことで、大地の生気が集った地点のことである。俗に「3年で龍を尋ね、10年で穴を定む」というほど、穴を見極めるのは難しい。優れた龍脈のはてには、必ず良い穴がある。龍穴を探し当てた後には、羅盤で正確に龍穴の位置を求めます。これを「点穴」といいます。
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大極暈が出てくれば、吉穴の証明の一つである。紅黄色であるのが最上級で、黄白色・白色・茶色も吉であるが、青色と黒色は凶で真気の宿っていない土壌だとされている。
「砂」
穴地の周辺にある岡谷小山のこと。龍穴の守りとなる凸地を指す。穴の左にあると青龍、右にあると白虎、前面を朱雀、後面を玄武と称する。それ以外に、穴の前面にある高台を朝山、小山を案山と呼ぶ。
「水」
穴前の河・池・湖・海などを指す。いかなる吉相の地でも、水気が欠けるとダメである。
郭撲の「葬書」には「風水の法は水を得て上となす」とある。世界各地の繁栄の地が、十分な水気に恵まれているのは周知の事実である。龍穴の前が開けていて、水が集まっているところ「明堂」といって重視する。台湾や香港のビルは、正面玄関の前を広く確保し、噴水や池を設けるのはそのためであり、風水の配慮からである。
「五星図」や「老九星図」で見る
「五星図」
「五星図」は山水や建物などの形を五行に置き換える。例えばマンションやビルの形を判断してみよう。
「老九星図」
「老九星図」は山岳や朝山・案山などの地形を九星に置き換え示したものである。
九星のうち七つが北斗七星のことを指し,九つの星は天の気を司り,地の気の運行も支配すると言われています。風水学で用いる「紫白九星」(一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫)と老九星は同じ意味である。
老九星図は唐代の楊救貧(均松)が使い,大勢の困窮した民を救済したところから良く知られるようになった。
東京の風水~東京は理想の地
東京は、西北の秩父山脈、西南の丹沢山脈、入間大地、武蔵野台地、大宮台地、下総台地、多摩丘陵、相模原台地などに囲まれている。古来、山脈や台地の生気が流れ込み、起伏のある吉相の地では動物や草木・人間は天然の活気を受け、都を定めるとその国は大きな繁栄を遂げると説かれてきた。また、東京には利根川、江戸川、中川、荒川、隅田川などの一・二級河川が多く存在し、しかも起伏のある地形なので「優れた風水の地」であることがわかる。
東京の臍ともいえる「皇居」のある所が、ちょうど東京の中心にあたり、ここは大龍穴である。皇居の回りには、多くの池や河川とともに内堀と外堀があり、お掘りは今もなお残されており、大地の気が散失するのを防いでいる。
しかも、房総半島が青龍砂であり、三浦半島が白虎砂であり、「砂環水抱」の大吉相を形成しているのである。
風水学において、最上の吉地といわれるのが「四神相応」の地。
四神とは「青龍」「朱雀」「白虎」「玄武」のことで、それぞれ東・南・西・北の守護神であるとされています。具体的には、東に河川、南に低地や平坦な地、そして西に大道があり、北に山脈や丘陵があるという地形を指す。
江戸城(皇居)を中心に据えると、東の「青龍」は隅田川・荒川に当たり、南の「朱雀」は東京湾、西の「白虎」は東海道、北の「玄武」は本郷台地に当たります。かつての長安(西安)や奈良の平城京、江戸もこの「四神相応」の条件を満たしている地の都を定めたのである。
東京の風水は、京都と比べると水龍に恵まれた地形といえるが、北の玄武(山)が弱い欠点を持つ。
京都の風水~長岡京からの遷都の理由
京都では、東側に比良山地が桃山まで伸びて青龍砂を作り、西側には丹波山地の支脈が白虎砂として守護している。北側には、乗鞍山、貴船山が玄武となり、南には開けて明堂となっており、唐の長安を模倣して造られたのも解る吉相の地である。
これは、奈良の都平城京から長岡京に遷都(784年)してわずか10年後に、京都の平安京に遷都しました。京都は長岡からみて東北にあたります。東北は陰の終り・陽の始めを意味しますので、桓武天皇はあいつぐ不幸(蝦夷征伐の失敗、母・夫人の死、皇太子の病気)などを打開しようとして東北の吉方位に遷都したわけである。 京都では、青龍(河川)に恵まれなかったにもかかわらず、鴨川の流れを変えることで四神相応の地の条件を人為的に満たしたという経緯がある。山龍に恵まれた地形といえよう。しかし、青龍砂が東海道線や新幹線により損なわれてしまっているのは残念である。
江戸城の風水
徳川幕府の安泰は、天海僧正の智恵によるところとされている。1603年に徳川幕府の本拠地を江戸城(今の皇居のあるところ)に定めたのであるが、そもそも太田道灌(1432~1486)によって築城されたものである。太田道灌は室町時代の武将で兵法家として陰陽五行の理に通じていた。
天海(1536~1643)の策略のもと、徳川家康は江戸城に本拠地を定めるのである。家康・秀忠・家光の三大将軍に仕え108歳の天寿をまっとうした南光坊天海がいなければ、270年にもわたる江戸幕府の繁栄と安泰が守られたかどうかは疑わしい。
天海は上野に寛永寺を開きそこの住職でもあったが、寛永寺は江戸城の東北に位置する鬼門封じのために建てられたものである。東北は「変化・相続」を司るところゆえである。
もともと、江戸城の東北には神田明神(平将門をまつる)が東北の守りとしてあったが、一層の強化を願い、寛永寺を建てたのである。(家康が六白金星の生れだった理由もある)
さらに、裏鬼門にあたる西南方位にも芝の増上寺を建て裏鬼門除けとする。このほか、天海は北に当たる日光に東照宮を建立した。
また天海僧正はこのような言葉を残している。
「水戸藩から世継ぎ(将軍)を迎える時、徳川家は終焉する」
当時の徳川幕府は徳川御三家が設けられており、将軍家に世継ぎが生まれなければ、原則として尾張・紀伊から将軍を迎え、特に水戸藩からは世継ぎがでないように配慮していた。実際最後の十五代将軍徳川慶喜は水戸藩から出ており、大政奉還、明治維新と徳川幕府は終焉することとなるのである。これも、東北方位が深い意味を持ってくる話である。


